当寺では修行において強制を致しません。生活習慣の矯正、更生を目的とした厳しい規律による修行は私たちの求める姿とは方向性が異なります。
私たちの行う修行はものを見る目を養い、正しく世界を見ることを大事にしております。
厳しい修練は精神力や達成感はありますが、個人の力を鍛えるにとどまります。
荒行をこなして両方のアプローチを経験している身としては、それでは自分の力では達成できない困難な課題や多くの人に影響を与え組織や世の中を変えてゆくような力は生まれません。
決められた形をなぞるのではなく、なぜその物事はそうなったのかを考えることを大事にしています。上手くいった先人の形をただまねるのではなく、背景や内容の理解を求めます。自分の頭でしっかり考え、気づくことを重視しています。答えがあってそれを与えられるそういった内容を期待されるなら得られるものは少ないと思います。自分は何を求め、それを実現するためには何をするべきか?
お釈迦様が亡くなられる直前に弟子たちに言い残した「自灯明、法灯明」という言葉があります。
お釈迦様が亡くなられたら弟子である私たちは何を道標にいきてゆけばよいのか?
という問いに答えられたものです。
自らの心が何をやりたいのか、世界の働きから見てそれは正しいのか実現するやり方なのかを灯火として、生き方を決めてゆけば迷うことは無い。
私がいなくてもこれができればどう生きればよいかは自ずと見つけることができる。
私たちも基本はこの考え方にたって修行や研修をしております。
決められたマニュアルや回答を得られる立場なら誰かが答えを用意してくれます。
でも、自分が先頭に立って答えの出ていない課題を解かなければならない立場にある方には是非、知っていただきたい考え方であると思っています。
答えの出にくい現代において古代の指導者たちが国や組織を導く道標とした仏教を学んでみたいと思われる方は是非みてください。私たちが現実に体験し克服した困難から作り上げられた困難を克服し、組織の命運を託すことができる確かな仏教がここにはあります。皆様と仏教を通じて語り合いながら道を求めることができればこれにまさる喜びはありません。(道陽)